【キングダム】嬴政の子供は誰?麗は実在する?史実との違いも調査

大人気歴史コミック『キングダム』で、嬴政と宮女・向の間に生まれた王女の麗(れい)。作中で見せる愛らしい姿や父である政との絆に、心を温められた読者も多いのではないでしょうか。
一方で、「麗は実在した人物なのか」「ほかにも子供はいるのか」など、歴史上の事実との違いが気になるところです。
本記事では、『キングダム』の嬴政を取り巻く子供たちの描写を振り返りながら、史実における真相や気になる謎について分かりやすく紐解いていきます。
キングダムの嬴政の子供は麗と扶蘇
作中において、秦王・政の子供として言及されているのは王女の麗(れい)と長男の扶蘇(ふそ)です。この二人は異なる母親を持つ異母兄妹として位置づけられています。
麗は誕生から政との親子のふれあいまで丁寧に描かれているのに対し、扶蘇は作中では名前が語られるのみで姿は描かれておらず、同じ政の子でありながら描写の扱われ方に大きな違いが見られます。
ここでは、麗が生まれた名場面や扶蘇の存在が明かされた場面を振り返りながら、それぞれの母親や父・政との関わりについて詳しく見ていきましょう。
麗は側室・向との娘|34巻で誕生
麗(れい)は、政と側室の向(こう)との間に誕生した王女です。向の懐妊は原作24巻の第261話にて判明し、麗が無事に出産を迎える様子は34巻の第366話で描かれました。
合従軍との激戦の直後に届いた吉報は、前線で戦う信たちの元にも届いています。愛娘を優しく抱く政の姿には、中華統一を目指す王としての一面とは異なる、娘を深く愛する父親の穏やかな表情がにじみ出ていました。
ただし、政には別の宮女との間に生まれた男児が先にいたため、麗は政にとって第一子ではありません。
扶蘇は別の宮女から生まれた長男
政の長男にあたる扶蘇(ふそ)は、向とは異なる宮女から誕生した子供です。原作24巻第261話において別の女性が先に政の子を身ごもっていた事実が明かされており、麗にとっては腹違いの兄にあたります。
生母の素性や容貌は劇中で語られておらず、麗との交流も描かれていません。麗の成長や母娘の危機が描かれる一方で、扶蘇は名前の言及にとどまり、王宮での姿は謎に包まれています。
扶蘇は歴史書の『史記』にも始皇帝の長男として実名が残る実在の人物です。史実では、父の没後に皇位継承をめぐる苛烈な権力闘争へ巻き込まれていきます。
麗は実在する?史記に名前は残っていない
作中で政と側室・向の間に誕生した麗は魅力あふれる王女ですが、本当に実在したのか疑問に思う方も多いでしょう。
始皇帝の親族を記した『史記』には娘たちの存在が記録されているものの、麗や向という名前を確認できる記述は見当たりません。
ここでは、麗や向の実在を示す歴史的記録の有無を整理しながら、史実に登場する10人の公主との関係についても探っていきます。
麗と向の実在を示す史料は確認できない
『史記』には扶蘇や胡亥といった始皇帝の息子たちが登場します。しかし、政の娘である麗や、母である側室・向という名前は関連史料のどこにも見当たりません。
当時の秦では王妃や王女の個人名が残りにくく、扶蘇や胡亥の生母さえ特定されていないのが実態です。こうした背景から、麗と向は史実をベースに物語を彩るために生み出された作中オリジナルの人物と捉えるのが自然でしょう。
もちろん、記録がないからといって、当時似た境遇の女性が実在しなかったとまでは断定できません。
史記には始皇帝の娘10人が記されている
歴史書の『史記』「李斯列伝」には、二世皇帝・胡亥の時代に10人の公主が処刑された記録が存在します。「公主」とは皇帝の娘を意味し、始皇帝に複数の娘がいた確たる証拠といえます。
同書では同時に12人の公子が処刑された事実も伝えています。ただし、10人という数字は粛清の犠牲となった娘の人数にすぎず、始皇帝の娘の総数を示しているわけではありません。
処刑された10人の個人名や生母も不明であり、作中の麗を特定の公主に結び付ける根拠はない状況です。
史実の嬴政の子供は?扶蘇と胡亥の運命
『キングダム』の嬴政は、史実の始皇帝としても多くの子をもうけた人物で、『史記』には20人を超える息子たちや複数の娘たちの存在が記されています。
ところが紀元前210年に始皇帝が急死すると、後継者と目されていた長男の扶蘇は即位できず、実権を握った末子の胡亥によって兄弟姉妹が次々と粛清される悲劇に見舞われました。
ここでは、史料に残る子供たちの人数や、扶蘇が自害に至った経緯、そして胡亥の即位後に起きた苛烈な一族抹殺の実態について解説します。
20人余りは息子の数|子供の総数ではない
『史記』には「始皇有二十餘子」とあり、始皇帝には20人余りの息子がいたと記されています。これは男子のみを指した表現であり、娘たちを含めた総数ではありません。
史料に名が残るのは、長男の扶蘇や末子の胡亥、公子高、公子将閭など一部の皇子に限られます。さらに胡亥の時代に10人の公主が処刑された記録があるため、娘も複数いたのは確実です。
したがって、文献から読み取れる子供の数だけでも優に30人を超えています。ただし、10人というのも刑死した娘の数であり、女子の総数や生母の素性までは分かっていません。
扶蘇の自害と胡亥による兄弟姉妹の粛清
長男の扶蘇(ふそ)は父の厳罰的な政策を諫めたため、北方の防衛拠点である上郡へ送られ、名将・蒙恬の軍を監督していました。紀元前210年、巡幸中に危篤となった始皇帝は、扶蘇を咸陽に呼び戻す遺言状を用意します。
ところが始皇帝の崩御後、趙高や李斯らは末子の胡亥(こがい)を擁立するため、扶蘇へ自害を命じる偽の詔書を送りました。蒙恬の制止を聞かず扶蘇は命を絶ち、胡亥が二代目皇帝に就くことになります。
即位した胡亥は皇位を固めるため、12人の公子と10人の公主を処刑したと記されています。しかし、これは史実の出来事であり、作中の麗が同じ悲劇をたどるとは限りません。
まとめ
作中における嬴政の子供としては、側室・向(こう)との娘・麗(れい)と、別の宮女から生まれた長男・扶蘇(ふそ)が描かれています。麗は秦の王女であり、扶蘇とは腹違いの兄妹という間柄です。
一方で『史記』に麗や向の名は見当たらず、実在した人物と確定はできません。史実の始皇帝には20人を超える男子と複数の王女がおり、その死後には扶蘇の自害や、胡亥による過酷な親族の粛清劇が巻き起こりました。
作中の麗が史実の公主たちと同じ結末を迎えると決めつけることなく、原泰久先生が描く家族の温かな絆の行く末に期待を寄せながら見守りたいところです。







